メガネ属性はないんですが2009年04月03日 23時19分

一応形式上は僕の部下と言うことになるのでしょうが、僕のデスクの前に細々とした事務処理をしてくれる女性が二人並んでいます。
二人とも僕より少し年上、どちらも人妻です。

お二方とも年齢より若く見え、しかもなかなかの美人。
そのうちの一人、僕の左前に座っていて、華奢でおっとりと大人びた雰囲気をたたえる方が、普段はコンタクトなのにメガネを掛けて出勤してきたんです。
訊くと、いつも使っているワンデーのコンタクトを切らしてしまったとのこと。

このメガネ姿が、何とも言えずコケティッシュなんですね。

日頃特段メガネに対して愛着を持ったりはしないんですが、このメガネ姿は別。
ケシカラヌ妄想を掻きたてさせずにはおれません。

何というか、女教師とか、夜のオフィスとか、そんな感じのねwww。

ご本人は至ってマジメで慎ましい雰囲気の持ち主なんですが、メガネの魔力というのか、それ一つで急に男を惑乱させる魅力を帯びてしまうのです。

こんな眼福が間近にあれば、3日続いての日付をまたいでの仕事の疲労も何のその。
頑張っちゃいましたよ。

そんなことを考えながら仕事してるなんて失礼極まりないのは承知していますが、使いすぎでいささか頭が煮え加減なんで致し方ありません。

おじさんってやーねwww。

SMについての一考察(あるいは「女王様」論)2009年02月01日 12時05分

今日の日記は長い上にいつも以上につまらないのでよっぽどお暇でない方以外はお帰りいただいた方がよろしいかと。

精神分析学の創始者であるフロイトは、後年の論文のいくつかでマゾヒズムについて論じています。
(ex.「マゾヒズムの経済論的問題」岩波書店刊フロイト全集第18巻所収)

当該論文において、フロイトはマゾヒズムを「性源的」「女性的」「道徳的」の三種類に分け、後年の思想の特徴である「エス」や「死の欲動」といった考え方を交えながら、その依って立つところを解き明かしていきます。

その理論をここでご紹介することは、果てしなく長くなるだけでなく、そもそも僕の能力では無理なので、こちらでは割愛しますが、後に若干フロイトの論考から拝借してくる部分もあろうかと思います。

さて、僕はSとMの関係をこのように考えるのです。
即ち、Sは「受け入れさせる人」、Mは「受け入れる人」。
もう少し分かりやすく、かつ逆説的な言い方をすれば、Sは「奉仕する人」、Mは「奉仕させる人」。

残念ながら僕にはそういう性癖が全くない(何故ないのかは最後にちょっと触れます)ので、SとMの関係性を極めて客観的に眺めることができるのですが、身も蓋もなくいえば「女王様ってのは大変だなあ」と思うわけです。
Mの人は基本的に何もせずにじっとしているだけですが、Sの人はあれやこれやとMの人にしてあげる。
殊にロープで縛り上げる際の手際などは、不器用で手元不如意な僕はただただ見とれるばかりです。

直接の行為はどのような形を取るにせよ、Sの人は自分の存在を受け入れさせるべく相当のエネルギーを使ってMの人に働きかけ、Mの人はがま口の蓋を開けてただそれを受け入れるだけなわけです。
一般的な捉え方とはおそらく異なるのだと思いますが、僕はSの人は面倒見が良くて優しく、Mの人は気ままでどちらかといえば冷淡である、というふうに感じています。
実際、僕が接したことのある女王様はみな頼りがいがある雰囲気で、優しい眼をしています。
見た目は確かに怖いですが、実際には温かそうな人ばかりです。

フロイトは前述論文の中で、死の欲動をリビード(一般的にはリビドーと称されていますが、ここでは岩波版全集の用語に従ってリビードと記述します)が無害化するためにその欲動を外界に向かわせたものがサディズムで、それが何らかの理由で内向きに働き、そこでリビードと共に拘束されたものがマゾヒズムであると(ものすごく簡略化すれば)述べています。
要は元々二つは同じものだと言っているわけですが、少なくとも人間観察的な見方をしているかぎりにおいては、どうもそのようには思えません。

少なくとも女王様に関するかぎり、実に建設的で、簡単に言えば「デキる」女性でなければ務まらないと思います。
僕はこの業界に聡いわけではないので正確なところは分かりませんが、僕の知るかぎり女王様が店を持つことはあってもMの人が店を持っているという話は聞いたことがありません。
女性が、殊に(あくまで法律上の)風俗店を経営するとなればかなりの行動力と才覚が必要なわけで、そういった仕事は確かに女王様にはうってつけ(おかしな言い方ですが)です。

実際、ビジネスマン的な視点から女王様を見ると、こういう女性と仕事をしたらかなり良い仕事ができるんじゃないかな、と思うことがままあります。

ここまできてふと、女王様というのはサディストの女性という意味ではなくて、「女王様」というまた別種の人格のあり方なのではないかと思うのです。
無論中には生粋のサディストである(つまり破壊欲動の申し子である)女王様もいらっしゃるでしょうが、基本的には(少なくとも精神分析的な意味での)サディズムと女王様という存在は切り離して考えることが必要だと思っています。

少し別の切り口から考えてみましょう。
フロイトは前掲論文において、男性に典型のマゾヒズムのあり方として、「女性的マゾヒズム」を挙げています。
これは、表層的には、縛られ、鞭打たれることを望む男性は即ち甘ったれた子供として扱われることを望んでいるのだという解釈です。
そうなると、じゃあそれに応えてお仕置きをしている女王様は「おかん」か、という話になるのですが、単純にそうではありません。
この場合当該男性は自らのリビード発達を性器期以前に退行させており、男性と女性が未分化である幼児期に至っています。
(なお、フロイトがここで「女性的」と呼んでいるのは、彼らが示す表象は幼児的であるのと同時に自らを女性に置き換えていることに所以しているのですが、ここではその詳細は割愛します)
この時期に特徴的に表れるのが、父に食われるという不安、父にぶたれたいという欲求、父に去勢されるのではないかという不安等々なわけですが、いずれにせよここで大きな役割を演じるのは「父」です。
つまるところ、M男に鞭を振るう女王様というのは、父と母両方の役割を演じていることになります。

両親の役割を演じている、というところに話が行き着くに至って、精神分析とはまた別の考え方が頭をよぎります。
エリック・バーンが提唱した「交流分析」という理論です。
理論の詳細はウィキに分かり易く解説されていますのでそちらをご参照いただきたいのですが、この考え方に沿えば、女王様はParentそのものであり、Mの人はChildそのものということになります。
つまり、SMのプレイというのはParentとChildが、お互いがお互いを無条件に是認する行為といえるのです。
交流分析の考え方における最も基本的なあるべき人間の状態が「I'm OK」であることを鑑みれば、この行為が確かに精神的快をもたらすことに大いに納得がいきます。

余談ですが、TV版エヴァの最後の二話はこの交流分析の考え方に類似しているという考え方があります。
これは、エヴァブームが最高潮だった放映終了直後の大学一年生のときに、当時受講していた心理学の講座の先生におそれおおくも「これ面白いです」とエヴァを紹介したところ大いに関心を持ってくださり、お忙しいのに全話見ていただいた上で、ラスト二話をこの交流分析的な見地から解説してくださったということがありました。
あまりにも子供で、怖いもの知らずだった頃の想い出です。

以上が僕のSMに対する基本的な捉え方ですが、最後に蛇足ながら僕がこうしたフェティシズムに与し得ない理由を述べてみたいと思います。
心理学的にあまりリアルに考えるとさすがに興醒めなので、ここは一つシンプルに。

それは、僕がオタクだからです。

SMに限らずある種のフェティシズムに身を置く人というのは、己のリビードを対象との関係性の中において燃焼させるわけですが、オタクというのはリビードを燃やすための燃料を自らに取り込むことによって、リビードを外に出すことなく己の中で燃焼させてしまう人種のことです。
その燃料は人それぞれですが、僕にとってはそれは歌であり、BLなわけです。
外に出すまでもなくリビードが萌えて、いやいや燃えてなくなってしまいますので、それが行為として表れることはないのです。

・・・ま、ネタニマジレスカコワルイという方向で<(_ _)>

鉄になりそう2008年08月20日 02時13分

古キョンに萌え萌えな(最近はキョン古も可)僕ではありますが、今一番僕の心を占めているのは、前々から書いている通り鉄道擬人化。
夏コミの戦果は、僕の萌え心にメラメラと火をつけてくれました。

まずはご本家様の新刊。
八高と越生の話ってktkr。
僕の住まいが毛呂山で勤め先が日高と知っての狼藉ですか?
この二人については、カプ萌えではなくて愛用路線愛(八高は乗ったことないけど)かな。
不勉強ながら八高線の黒歴史については全く知らなかったので、wikiで調べてますます八高が好きになりました。
今度乗りに行こうかな。

既刊ですが、素顔が明らかになった副都心線の傍若無人なドSっぷりも可愛い。
覆面をかぶった西武有楽町も反則的な可愛さです。

ご本家さんからの二次では、銀座&丸ノ内がツボ。
第三軌条方式で二人っきりって、すごいいいシチュエーションじゃないですか。
銀座は丸ノ内に入れるけど丸ノ内は銀座に入れないってのも切なくていい。
でも、この辺もご本家様の銀座のキャラ設定が上手いから萌えるという側面が大きく、ご本家様の素晴らしさを改めて認識します。

ところで、駅進入直前に室内灯が消える頃の銀座線を知っている人って、少なくともコミケ会場じゃほとんどいないでしょうね・・・。
それを思うと、僕も結構古い人間だと思えてしまいます。

後は都営地下鉄&都電本。
カプ物ではないのですが、セーラー服(♂)の都電荒川と、懐いているネコ(=都バス)がめちゃめちゃ可愛い!
浅草線のお間抜けな誕生秘話がわらかしてくれます。

後は中央×総武緩行とか、東北(新幹線)×秋田とか、メトロ有楽町&西武有楽町とか、いろいろ萌えさせてくれます。

いろいろな本を読んでいると、無性に電車に乗りたくなってきます。
鶴見線に乗って海芝浦行ってみようか、とか(笑)。
9月最初の週末で遅い夏休みが取れそうなので、はやぶさ&リレーつばめ&つばめ、の経路で鹿児島まで行ってこようかと思っています。
(帰りは飛びますが)
まだはやぶさのシングルデラックスが残っていたら、実行に移す予定。

触発されていろいろ調べてみると、懐かしいことを思い出したり(常磐線普通電車がまだ国鉄急行色だった頃のこととか)、知らなかった興味深いことに出逢ったりとか、世界が広がっていきます。
ひょんなところから、鉄道ブームがきております。

今年の夏は鉄道擬人化が熱い!2008年08月09日 23時51分

今日は丸一日引き籠もって音楽聴きながらPCに向かっていました。
ネットで漁るは鉄道擬人化サークルさんの情報。
夏コミに鉄道擬人化本を出すサークルさんのリンク集を起点にひたすらネットサーフィン。
専業でやってるサークルさんより兼業農家さんの方が多く、会場のあちこちを回る必要があるので、体力勝負になりそうです。
しかも二日目でハルヒとかぶるし。
おまけにアフターイベントはGARNET CROWのライブだし。

本当に鉄道擬人化は萌えるなあ。
日中PCに向かっている僕の顔はきっと暗い笑みに満ちていたと思いますよ。
最近自分がどんどん変な方向にねじ曲がっていく自覚はあるんですがね・・・。

古キョンには財津さんの歌がよく合う2008年05月09日 01時04分

先日のスパコミでは素晴らしい古キョン本が大漁で、おかげで部屋はまるで廃人のそれのようですが、束の間の自由な時間は古キョンにまみれて過ごしており、大変充実した日々を過ごしております。

その間のBGMは財津さんの歌で固定。
財津さんの歌は古キョンの世界によく合うのです。

財津さんの歌は、小田さんと違って別れの情景を歌ったものが多いのです。
「心の旅」にせよ「青春の影」にせよ「サボテンの花」にせよ「虹とスニーカーのころ」にせよ、シチュエーションは異なりますがいずれも恋・愛の終わりを描いた歌です。
もちろん小田さんが得意とする、愛する人を想う歌もあるのですが、数の面でも質の面でも、別れの歌の方が上回っていると思います。

そして、古キョンの本質は終わるべき、枯れるべき愛だと思うのです。
古キョンは報われてはならない関係なんです。
いっときの情欲の燃え上がりはあるにせよ、世界を守るため、唯一絶対神涼宮ハルヒを裏切るわけにはいかない。
そのために二人は引き裂かれなければならない。

そう僕は思うのです。

実際にはそういう本はないので、その意味では欲求不満はなしとはしないのですが、仮に二人の想いが通じ合っている話を読んでいても、根底には脆さを孕んでいるという脳内前提を踏まえて読んでいるので、やはり二人の気持ちが離れていく歌がBGMには相応しいのです。

別れを描く財津さんの詞は実に秀逸なものばかりです。
思いつくままちょっと列挙してみると

「出逢いがもらう愛ならば 別れはあげる愛なのか」
「明るい嘘のように 無邪気なさよならが 僕らにできるなんて こんな弱い僕らに」
「別れられる強さ 僕の方はないさ」
「I love you ふたりなら うまくゆけたのに もっと幸せに 素直になれたら」
「この映画のラストシーンは僕には作れない」
「この街はまた大きくなった ふたりはまた遠くなった」

それぞれの曲をテーマにしていちいち古キョンが書けそうです。

一方で、相手を想う気持ちを歌った歌は、それはそれで古キョンなんです。

「きみの落とした悲しみの 数だけ僕が拾っていくよ きみの苦しみの重さだけ 僕に持たせておくれ」

ここにあげたのはほんの一部ですが、こんな詞が財津さんの美声で歌われるのを聴きながら素晴らしい古キョン本の数々を読んでいると、イイ感じに脳みそが沸騰してきます。

しかし、例えばアイシのヒル×セナとかには財津さんはあまり合わず、むしろ小田さんの歌が欲しくなります。
財津さんの歌は暗いカプと親和性があるようです。