15年戦争に対する認識について2008年11月17日 21時51分

11/15の日記及びそれに対しらぴさんより寄せていただいたコメントを元に、もう一度15年戦争に対する認識について考え方を述べてみたいと思う。

この話題になると、とかく「アジアに対する行為は占領だったのか否か」や「アメリカは大空襲や原爆投下を謝罪すべきだ」といった、何故か外に眼が行ってしまうのだが、一番大切なのは、我々日本人自身が自国の行為をどう思うか、である。
その評価がろくに出来ていないのに、他人に謝罪したり逆にそれを要求したりなど、本来は出来ないはずだ。

まず見据えなければならない重要かつ単純な事実は、日本は負けたということである。
単純なロジックとして、国土を焦土と化す原因となった行為及びその当事者を称揚することなどおよそあり得ない。
もちろん大空襲を行ったのも原爆を投下したのも手を下したのはアメリカだが、そんな事態になる前に戦争を終わらせる義務、それ以前にアメリカと戦争などしないようにする義務が当時の政府にはあった。

とにかく拙い戦争だった。
大国の言うなりになっていては属国となり果てる未来しか待っていなかったのは、確かに当時の国際情勢から見てその通りだが、だからといって大国と同様のやんちゃをして良いわけではない。
アメリカを初めとした大国のご機嫌を損ねないように、いわば「こすい」やり方で少しずつアジアでの権益を拡大するのが日本の歩むべき道であったのだ。
(個人的には、派手にやりたいんだったらやるべきはアメリカをけしかけての対ソ戦だったのではないかと思っている)
それなのに無茶をやらかし、挙げ句の果てにはまんまとアメリカの手に乗せられて先制攻撃をさせられて悪者に仕立て上げられる。

どう考えても評価できない。

戦術も拙劣きわまりなかった。
兵站を無視して無暗に戦線を拡大し、制空権を軽視し、重要な局面においても追加の戦力は逐次投入。
「生きて虜囚の辱めを受けず」というが、捕虜になるのも重要な戦略の一つなのは常識である。
勝ち目がないのなら自らが足手まといとなり、敵部隊の機動力を殺ぎ、貴重な食料や薬剤を浪費させる。
本来ならばこれこそ「陛下の御為」のはずだが、不合理な精神論があるべき勝つための戦術を駆逐してしまう。

挙げ句の果てにはイスラム原理主義者もびっくりな戦果の乏しい大量自爆を命じ、民間人にも自決を強いる。
もはやこんなものは正常な戦争とは言えず、評価すべき点など一つもありはしない。
(この敗戦のおかげでアメリカ式資本主義が輸入されて今の繁栄がある、という「真の自虐史観」の立場に立つなら別だが)

日本政府は、まず日本国民に対して、自らの拙劣な国家運営によって多大な迷惑をかけたことを謝罪すべきだ。
あの戦争が自分たちにとってどうだったのかを考えれば、日本は正しいことをしたなんて科白は逆立ちしたって出て来はしない。

真のナショナリズムとは、世界における自国のプレゼンスを少しでも高めようとする考え方である。
日本人には決定的にこの考え方が抜け落ちている。
正しいナショナリストは、国の為にならぬ(ならなかった)ことを決して賞賛などせぬはずであり、タモさんは無論ナショナリストなどではないのだ。