SMについての一考察(あるいは「女王様」論) ― 2009年02月01日 12時05分
今日の日記は長い上にいつも以上につまらないのでよっぽどお暇でない方以外はお帰りいただいた方がよろしいかと。
精神分析学の創始者であるフロイトは、後年の論文のいくつかでマゾヒズムについて論じています。
(ex.「マゾヒズムの経済論的問題」岩波書店刊フロイト全集第18巻所収)
当該論文において、フロイトはマゾヒズムを「性源的」「女性的」「道徳的」の三種類に分け、後年の思想の特徴である「エス」や「死の欲動」といった考え方を交えながら、その依って立つところを解き明かしていきます。
その理論をここでご紹介することは、果てしなく長くなるだけでなく、そもそも僕の能力では無理なので、こちらでは割愛しますが、後に若干フロイトの論考から拝借してくる部分もあろうかと思います。
さて、僕はSとMの関係をこのように考えるのです。
即ち、Sは「受け入れさせる人」、Mは「受け入れる人」。
もう少し分かりやすく、かつ逆説的な言い方をすれば、Sは「奉仕する人」、Mは「奉仕させる人」。
残念ながら僕にはそういう性癖が全くない(何故ないのかは最後にちょっと触れます)ので、SとMの関係性を極めて客観的に眺めることができるのですが、身も蓋もなくいえば「女王様ってのは大変だなあ」と思うわけです。
Mの人は基本的に何もせずにじっとしているだけですが、Sの人はあれやこれやとMの人にしてあげる。
殊にロープで縛り上げる際の手際などは、不器用で手元不如意な僕はただただ見とれるばかりです。
直接の行為はどのような形を取るにせよ、Sの人は自分の存在を受け入れさせるべく相当のエネルギーを使ってMの人に働きかけ、Mの人はがま口の蓋を開けてただそれを受け入れるだけなわけです。
一般的な捉え方とはおそらく異なるのだと思いますが、僕はSの人は面倒見が良くて優しく、Mの人は気ままでどちらかといえば冷淡である、というふうに感じています。
実際、僕が接したことのある女王様はみな頼りがいがある雰囲気で、優しい眼をしています。
見た目は確かに怖いですが、実際には温かそうな人ばかりです。
フロイトは前述論文の中で、死の欲動をリビード(一般的にはリビドーと称されていますが、ここでは岩波版全集の用語に従ってリビードと記述します)が無害化するためにその欲動を外界に向かわせたものがサディズムで、それが何らかの理由で内向きに働き、そこでリビードと共に拘束されたものがマゾヒズムであると(ものすごく簡略化すれば)述べています。
要は元々二つは同じものだと言っているわけですが、少なくとも人間観察的な見方をしているかぎりにおいては、どうもそのようには思えません。
少なくとも女王様に関するかぎり、実に建設的で、簡単に言えば「デキる」女性でなければ務まらないと思います。
僕はこの業界に聡いわけではないので正確なところは分かりませんが、僕の知るかぎり女王様が店を持つことはあってもMの人が店を持っているという話は聞いたことがありません。
女性が、殊に(あくまで法律上の)風俗店を経営するとなればかなりの行動力と才覚が必要なわけで、そういった仕事は確かに女王様にはうってつけ(おかしな言い方ですが)です。
実際、ビジネスマン的な視点から女王様を見ると、こういう女性と仕事をしたらかなり良い仕事ができるんじゃないかな、と思うことがままあります。
ここまできてふと、女王様というのはサディストの女性という意味ではなくて、「女王様」というまた別種の人格のあり方なのではないかと思うのです。
無論中には生粋のサディストである(つまり破壊欲動の申し子である)女王様もいらっしゃるでしょうが、基本的には(少なくとも精神分析的な意味での)サディズムと女王様という存在は切り離して考えることが必要だと思っています。
少し別の切り口から考えてみましょう。
フロイトは前掲論文において、男性に典型のマゾヒズムのあり方として、「女性的マゾヒズム」を挙げています。
これは、表層的には、縛られ、鞭打たれることを望む男性は即ち甘ったれた子供として扱われることを望んでいるのだという解釈です。
そうなると、じゃあそれに応えてお仕置きをしている女王様は「おかん」か、という話になるのですが、単純にそうではありません。
この場合当該男性は自らのリビード発達を性器期以前に退行させており、男性と女性が未分化である幼児期に至っています。
(なお、フロイトがここで「女性的」と呼んでいるのは、彼らが示す表象は幼児的であるのと同時に自らを女性に置き換えていることに所以しているのですが、ここではその詳細は割愛します)
この時期に特徴的に表れるのが、父に食われるという不安、父にぶたれたいという欲求、父に去勢されるのではないかという不安等々なわけですが、いずれにせよここで大きな役割を演じるのは「父」です。
つまるところ、M男に鞭を振るう女王様というのは、父と母両方の役割を演じていることになります。
両親の役割を演じている、というところに話が行き着くに至って、精神分析とはまた別の考え方が頭をよぎります。
エリック・バーンが提唱した「交流分析」という理論です。
理論の詳細はウィキに分かり易く解説されていますのでそちらをご参照いただきたいのですが、この考え方に沿えば、女王様はParentそのものであり、Mの人はChildそのものということになります。
つまり、SMのプレイというのはParentとChildが、お互いがお互いを無条件に是認する行為といえるのです。
交流分析の考え方における最も基本的なあるべき人間の状態が「I'm OK」であることを鑑みれば、この行為が確かに精神的快をもたらすことに大いに納得がいきます。
余談ですが、TV版エヴァの最後の二話はこの交流分析の考え方に類似しているという考え方があります。
これは、エヴァブームが最高潮だった放映終了直後の大学一年生のときに、当時受講していた心理学の講座の先生におそれおおくも「これ面白いです」とエヴァを紹介したところ大いに関心を持ってくださり、お忙しいのに全話見ていただいた上で、ラスト二話をこの交流分析的な見地から解説してくださったということがありました。
あまりにも子供で、怖いもの知らずだった頃の想い出です。
以上が僕のSMに対する基本的な捉え方ですが、最後に蛇足ながら僕がこうしたフェティシズムに与し得ない理由を述べてみたいと思います。
心理学的にあまりリアルに考えるとさすがに興醒めなので、ここは一つシンプルに。
それは、僕がオタクだからです。
SMに限らずある種のフェティシズムに身を置く人というのは、己のリビードを対象との関係性の中において燃焼させるわけですが、オタクというのはリビードを燃やすための燃料を自らに取り込むことによって、リビードを外に出すことなく己の中で燃焼させてしまう人種のことです。
その燃料は人それぞれですが、僕にとってはそれは歌であり、BLなわけです。
外に出すまでもなくリビードが萌えて、いやいや燃えてなくなってしまいますので、それが行為として表れることはないのです。
・・・ま、ネタニマジレスカコワルイという方向で<(_ _)>
精神分析学の創始者であるフロイトは、後年の論文のいくつかでマゾヒズムについて論じています。
(ex.「マゾヒズムの経済論的問題」岩波書店刊フロイト全集第18巻所収)
当該論文において、フロイトはマゾヒズムを「性源的」「女性的」「道徳的」の三種類に分け、後年の思想の特徴である「エス」や「死の欲動」といった考え方を交えながら、その依って立つところを解き明かしていきます。
その理論をここでご紹介することは、果てしなく長くなるだけでなく、そもそも僕の能力では無理なので、こちらでは割愛しますが、後に若干フロイトの論考から拝借してくる部分もあろうかと思います。
さて、僕はSとMの関係をこのように考えるのです。
即ち、Sは「受け入れさせる人」、Mは「受け入れる人」。
もう少し分かりやすく、かつ逆説的な言い方をすれば、Sは「奉仕する人」、Mは「奉仕させる人」。
残念ながら僕にはそういう性癖が全くない(何故ないのかは最後にちょっと触れます)ので、SとMの関係性を極めて客観的に眺めることができるのですが、身も蓋もなくいえば「女王様ってのは大変だなあ」と思うわけです。
Mの人は基本的に何もせずにじっとしているだけですが、Sの人はあれやこれやとMの人にしてあげる。
殊にロープで縛り上げる際の手際などは、不器用で手元不如意な僕はただただ見とれるばかりです。
直接の行為はどのような形を取るにせよ、Sの人は自分の存在を受け入れさせるべく相当のエネルギーを使ってMの人に働きかけ、Mの人はがま口の蓋を開けてただそれを受け入れるだけなわけです。
一般的な捉え方とはおそらく異なるのだと思いますが、僕はSの人は面倒見が良くて優しく、Mの人は気ままでどちらかといえば冷淡である、というふうに感じています。
実際、僕が接したことのある女王様はみな頼りがいがある雰囲気で、優しい眼をしています。
見た目は確かに怖いですが、実際には温かそうな人ばかりです。
フロイトは前述論文の中で、死の欲動をリビード(一般的にはリビドーと称されていますが、ここでは岩波版全集の用語に従ってリビードと記述します)が無害化するためにその欲動を外界に向かわせたものがサディズムで、それが何らかの理由で内向きに働き、そこでリビードと共に拘束されたものがマゾヒズムであると(ものすごく簡略化すれば)述べています。
要は元々二つは同じものだと言っているわけですが、少なくとも人間観察的な見方をしているかぎりにおいては、どうもそのようには思えません。
少なくとも女王様に関するかぎり、実に建設的で、簡単に言えば「デキる」女性でなければ務まらないと思います。
僕はこの業界に聡いわけではないので正確なところは分かりませんが、僕の知るかぎり女王様が店を持つことはあってもMの人が店を持っているという話は聞いたことがありません。
女性が、殊に(あくまで法律上の)風俗店を経営するとなればかなりの行動力と才覚が必要なわけで、そういった仕事は確かに女王様にはうってつけ(おかしな言い方ですが)です。
実際、ビジネスマン的な視点から女王様を見ると、こういう女性と仕事をしたらかなり良い仕事ができるんじゃないかな、と思うことがままあります。
ここまできてふと、女王様というのはサディストの女性という意味ではなくて、「女王様」というまた別種の人格のあり方なのではないかと思うのです。
無論中には生粋のサディストである(つまり破壊欲動の申し子である)女王様もいらっしゃるでしょうが、基本的には(少なくとも精神分析的な意味での)サディズムと女王様という存在は切り離して考えることが必要だと思っています。
少し別の切り口から考えてみましょう。
フロイトは前掲論文において、男性に典型のマゾヒズムのあり方として、「女性的マゾヒズム」を挙げています。
これは、表層的には、縛られ、鞭打たれることを望む男性は即ち甘ったれた子供として扱われることを望んでいるのだという解釈です。
そうなると、じゃあそれに応えてお仕置きをしている女王様は「おかん」か、という話になるのですが、単純にそうではありません。
この場合当該男性は自らのリビード発達を性器期以前に退行させており、男性と女性が未分化である幼児期に至っています。
(なお、フロイトがここで「女性的」と呼んでいるのは、彼らが示す表象は幼児的であるのと同時に自らを女性に置き換えていることに所以しているのですが、ここではその詳細は割愛します)
この時期に特徴的に表れるのが、父に食われるという不安、父にぶたれたいという欲求、父に去勢されるのではないかという不安等々なわけですが、いずれにせよここで大きな役割を演じるのは「父」です。
つまるところ、M男に鞭を振るう女王様というのは、父と母両方の役割を演じていることになります。
両親の役割を演じている、というところに話が行き着くに至って、精神分析とはまた別の考え方が頭をよぎります。
エリック・バーンが提唱した「交流分析」という理論です。
理論の詳細はウィキに分かり易く解説されていますのでそちらをご参照いただきたいのですが、この考え方に沿えば、女王様はParentそのものであり、Mの人はChildそのものということになります。
つまり、SMのプレイというのはParentとChildが、お互いがお互いを無条件に是認する行為といえるのです。
交流分析の考え方における最も基本的なあるべき人間の状態が「I'm OK」であることを鑑みれば、この行為が確かに精神的快をもたらすことに大いに納得がいきます。
余談ですが、TV版エヴァの最後の二話はこの交流分析の考え方に類似しているという考え方があります。
これは、エヴァブームが最高潮だった放映終了直後の大学一年生のときに、当時受講していた心理学の講座の先生におそれおおくも「これ面白いです」とエヴァを紹介したところ大いに関心を持ってくださり、お忙しいのに全話見ていただいた上で、ラスト二話をこの交流分析的な見地から解説してくださったということがありました。
あまりにも子供で、怖いもの知らずだった頃の想い出です。
以上が僕のSMに対する基本的な捉え方ですが、最後に蛇足ながら僕がこうしたフェティシズムに与し得ない理由を述べてみたいと思います。
心理学的にあまりリアルに考えるとさすがに興醒めなので、ここは一つシンプルに。
それは、僕がオタクだからです。
SMに限らずある種のフェティシズムに身を置く人というのは、己のリビードを対象との関係性の中において燃焼させるわけですが、オタクというのはリビードを燃やすための燃料を自らに取り込むことによって、リビードを外に出すことなく己の中で燃焼させてしまう人種のことです。
その燃料は人それぞれですが、僕にとってはそれは歌であり、BLなわけです。
外に出すまでもなくリビードが萌えて、いやいや燃えてなくなってしまいますので、それが行為として表れることはないのです。
・・・ま、ネタニマジレスカコワルイという方向で<(_ _)>
GRANRODEO 2nd LIVE TOUR 2008-2009「ROCK INSTINCT」追加公演@Zepp Tokyo ― 2009年02月02日 22時47分
いやあ、もう飛んで叫んできましたよ!
結構足に来ていて、危うく駅の階段で足を踏み外しそうになったり。
広いZeppがみっしり満員御礼になっていましたが、2ちゃんで客の入りを心配するような書き込みがあったらしく、きーやんが怒ってました。
大丈夫、新潟の方がよっぽど空いてたから(笑)。
今日は飯塚さんが熱かったですね。
5分ぐらいソロを取る場面があったんですが、ジミヘンばりに歯で弾いたり背中で弾いたり(めちゃめちゃ上手かったです)してくれて、鳥肌立ちました。
飯塚さんといえば、MCでこんなやりとりがありました。
「先週も来てくれた人!」(会場の半分くらいが手を挙げて「Yeah!」)
「じゃあ、先週来なかった人!」(僕を含めた会場の半分くらいがやっぱり手を挙げて「Yeah!」)
「その中で武道館に行ってた人!」(僕を含めた20人くらいがちょっと控えめに「Yeah!」)
「そういうヤツは下手から出てタクシーで帰って、飯塚の名前で領収書もらってオレに寄こせ」と言われてしまいました(汗)。
そして重大発表が!
7月11日(土)に日比谷の野音でライブ開催決定!!!
ドンドン!パフパフ!なんですが、5日が奈々さんの西武球場じゃないですか。
こりゃ今年の夏も初っ端から暑いなあ。
でも、僕は思うんですよ。
7/11ってまだ梅雨の最中ですよね。
RODEOさんって雨男ですよね。
そんでもって野音ですよね。
良い雨合羽を用意する必要があるのではないかと。
結構足に来ていて、危うく駅の階段で足を踏み外しそうになったり。
広いZeppがみっしり満員御礼になっていましたが、2ちゃんで客の入りを心配するような書き込みがあったらしく、きーやんが怒ってました。
大丈夫、新潟の方がよっぽど空いてたから(笑)。
今日は飯塚さんが熱かったですね。
5分ぐらいソロを取る場面があったんですが、ジミヘンばりに歯で弾いたり背中で弾いたり(めちゃめちゃ上手かったです)してくれて、鳥肌立ちました。
飯塚さんといえば、MCでこんなやりとりがありました。
「先週も来てくれた人!」(会場の半分くらいが手を挙げて「Yeah!」)
「じゃあ、先週来なかった人!」(僕を含めた会場の半分くらいがやっぱり手を挙げて「Yeah!」)
「その中で武道館に行ってた人!」(僕を含めた20人くらいがちょっと控えめに「Yeah!」)
「そういうヤツは下手から出てタクシーで帰って、飯塚の名前で領収書もらってオレに寄こせ」と言われてしまいました(汗)。
そして重大発表が!
7月11日(土)に日比谷の野音でライブ開催決定!!!
ドンドン!パフパフ!なんですが、5日が奈々さんの西武球場じゃないですか。
こりゃ今年の夏も初っ端から暑いなあ。
でも、僕は思うんですよ。
7/11ってまだ梅雨の最中ですよね。
RODEOさんって雨男ですよね。
そんでもって野音ですよね。
良い雨合羽を用意する必要があるのではないかと。
がんばれ!中学受験生 ― 2009年02月02日 22時48分
といっても、天王山は過ぎてしまいましたが・・・。
僕が中学受験をしたのももう19年前の話、月日が経つのは本当に早いもんです。
前日関東地方にしては結構な雪が降り、2/1の朝は家から駅までの道のりを文字通り滑らないように慎重に歩きました。
(まだ早朝で、ほとんど足跡の付いていない白い道だったのを憶えています)
しかし、(まだあるのかは知りませんが)四谷大塚の「合不合判定テスト」(要は模試ですね)では第一志望校は完全に安全圏だったにもかかわらず、あえなく滑ってしまいました。
ただし、その学校は開成の滑り止めも兼ねていたため、2/3にも二回目の試験があり、そちらの方で無事合格。
4年生から始まった僕の中学入試は、どうにかめでたい形で終了しました。
大学入試は来年がありますが、中学入試はそれがありません。
失敗すると本人以上に親のダメージが大きく、冗談事でなく家庭不和の原因となりうるので、子供にかかるプレッシャーはハンパではありません。
ありとあらゆる側面で、12歳の子供には過酷だと思います。
今の世の中、偏差値の高いいわゆる「良い」学校に行ったところで良い就職先に恵まれるとも限らず、昔に比べて「割に合う」確率は低くなったとは思いますが、それでも少しでも明るい未来を迎える可能性を高くしてやりたいというのが親心なんでしょうね。
2/4にはほとんどの学校の合否が判明し、笑顔と涙の明暗が分かれます。
経験者として、特に天国と地獄の両方を味わった身として、無理と知りながらも、頑張ったみんなが笑顔になれることを願って止みません。
余談ですが、NHKのニュースで、今日入試があった僕の母親の出身校であるミッション系の女子校の様子が映りました。
受験生への案内があったのですが、全部「○○しなさい」という命令形で書いてあるんですね。
「○○してください」じゃないんだ・・・。
さすが、母親の在学中に創立100周年を迎えたような学校は違います。
(ヘボンが創立者の一人だっていう学校ですからね・・・)
伝統あるミッション系女子校というと、「ごきげんよう」だとか「タイが曲がっていてよ」みたいな世界を想像しがちですが、現実は真逆で、制服はなくて私服、しかも母親が在学していた全共闘全盛期には、女子校なのにロックアウトがあったというリベラルすぎる校風の学校のようです。
僕の母親も、目の前で息子が18禁BL同人誌を読んでいても何も言わないリベラルすぎるひとですからね、それも頷けます。
僕が中学受験をしたのももう19年前の話、月日が経つのは本当に早いもんです。
前日関東地方にしては結構な雪が降り、2/1の朝は家から駅までの道のりを文字通り滑らないように慎重に歩きました。
(まだ早朝で、ほとんど足跡の付いていない白い道だったのを憶えています)
しかし、(まだあるのかは知りませんが)四谷大塚の「合不合判定テスト」(要は模試ですね)では第一志望校は完全に安全圏だったにもかかわらず、あえなく滑ってしまいました。
ただし、その学校は開成の滑り止めも兼ねていたため、2/3にも二回目の試験があり、そちらの方で無事合格。
4年生から始まった僕の中学入試は、どうにかめでたい形で終了しました。
大学入試は来年がありますが、中学入試はそれがありません。
失敗すると本人以上に親のダメージが大きく、冗談事でなく家庭不和の原因となりうるので、子供にかかるプレッシャーはハンパではありません。
ありとあらゆる側面で、12歳の子供には過酷だと思います。
今の世の中、偏差値の高いいわゆる「良い」学校に行ったところで良い就職先に恵まれるとも限らず、昔に比べて「割に合う」確率は低くなったとは思いますが、それでも少しでも明るい未来を迎える可能性を高くしてやりたいというのが親心なんでしょうね。
2/4にはほとんどの学校の合否が判明し、笑顔と涙の明暗が分かれます。
経験者として、特に天国と地獄の両方を味わった身として、無理と知りながらも、頑張ったみんなが笑顔になれることを願って止みません。
余談ですが、NHKのニュースで、今日入試があった僕の母親の出身校であるミッション系の女子校の様子が映りました。
受験生への案内があったのですが、全部「○○しなさい」という命令形で書いてあるんですね。
「○○してください」じゃないんだ・・・。
さすが、母親の在学中に創立100周年を迎えたような学校は違います。
(ヘボンが創立者の一人だっていう学校ですからね・・・)
伝統あるミッション系女子校というと、「ごきげんよう」だとか「タイが曲がっていてよ」みたいな世界を想像しがちですが、現実は真逆で、制服はなくて私服、しかも母親が在学していた全共闘全盛期には、女子校なのにロックアウトがあったというリベラルすぎる校風の学校のようです。
僕の母親も、目の前で息子が18禁BL同人誌を読んでいても何も言わないリベラルすぎるひとですからね、それも頷けます。
ライブにおけるマナー(モラル)について ― 2009年02月03日 22時25分
奈々さんのコミュやみのりんのコミュに表題に挙げたテーマのトピが立っており、しばらく読んでいたのですが、議論されている内容に対して大いに疑問を感じたので、みのりんのツアーが近いこともあり、自分なりの考えをまとめてみることにしました。
僕は面と向かってする議論は大好きなのですが、相手の顔が見えないし何よりレスポンスに時間のかかるWEB上の議論というのが大嫌いなので日記に書きますが、もしご意見がある方はご遠慮なくコメントをいただければと思います。
僕は以下の3点が守られているかぎりライブ会場では何をやっても差し支えないと考えています。
①アーティストが望まない行為ではないこと
②周囲の他の聴衆に迷惑をかけないこと
③アーティストのメッセージを受け取り、アーティストと心を1つにするためにする行為であること
この原則に依って立てば、無益な議論は発生し得ないと僕は思います。
例えば、オタ芸について言及すると必ず「何を持ってオタ芸とするのか」という本筋から逸れた原則論になってしまうのですが、③の点に注目すれば自ずと何をするべきではないかに気づくことができるはずです。
動きの大小とかそんなことはどうでもよくて、身体を動かしたり声を上げたりすることが手段ではなく目的となってしまっている時点で、舞台上のパフォーマンスはもはや二次的なものになってしまっているわけですから、アーティストと真正面から相対すべき聴衆としてのモラルに欠ける行為と言わざるを得ません。
従って、奈々さんの武道館でいわゆる「コール本」とでもいうべきものが配付されていましたが、作成し配付した方々の情熱には頭が下がる一方で、その趣旨には首を傾げざるを得ないのです。
野球やサッカーの応援じゃないんだから、かけ声を揃えることなんぞに腐心する前にまずちゃんと歌を聴こうよ、と思ってしまうのです。
聴衆の心ばかりが勝手に一つにまとまっても仕方ありません。
アーティストのパフォーマンスを心と身体に感じて、その反射としてシャウトしたり身体が動いたりするわけで、みんながみんな意図的に同じ反応をしようとすることには違和感を覚えます。
もちろん、いわゆる「お約束」を否定するつもりはありません。
奈々さんで言えば、いわばオフィシャルのお約束である「タオル曲」なんかはライブを盛り上げる上で必要不可欠なスパイスだと思いますし、今回のツアーで定着した『DISCOTHEQUE』での「ちゅるぱや」コールなんかは、あのとてもチャーミングな歌と奈々さんを核にツアー参加者が何の示し合わせもなく一つになった例であり、アーティストと聴衆の心が一つになった好例だと思います。
みのりんの『純白』での白いサイリウムも言わずもがな。
舞台上のパフォーマンスとは関係なく恣意的に行われる行為一切は、周りに迷惑をかけるとかそういう問題とは関係なく、聴衆としてのモラルに反すると思います。
着替え後のMCにおける「回ってー!」に対する異論は、僕にはその意味するところが理解できませんでした。
「ライブの流れを妨げる」というのであれば、そもそもライブにおいてわざわざ歌を中断して着替えること自体が流れを妨げる行為なわけで、着替えなどするな、ということになってしまいます。
そこをあえて着替えるということは、いろいろな衣装を見てもらいたいというアーティストの側からの意思表示なわけであり、それに対してレスポンスをするのはファンならばむしろ当然のことです。
特に奈々さんについて言えば、「回ってー!」に関連するやりとりを明らかに楽しんでおり、アーティストと聴衆が双方向のやりとりを交わす貴重なきっかけとなっているわけで、異論を差し挟む余地などないと思います。
ただし、そういうことを楽しめるアーティストばかりではないでしょうから、それが前記①に抵触するような場合には即刻止めるべきなのは言うまでもありません。
UOについての議論もよく分かりませんでした。
人が何本折ろうが、そんなのは自由だと思います。
もちろん使用済みのものを床に散らかしたまま帰るとか、その後の処理ができないというのは別の問題としてありますが、少なくともライブの最中の問題としては成立しないと思います。
確かに頻繁にUOを目の前で振られたら鬱陶しいと思う向きもあるかもしれませんが、自分はそれが不快だから止めろと言うのは、背が高い人に邪魔だから俺の前で飛んだり腕を振り上げたりするなと言うのと同じ暴論だと思います。
僕も奈々さんのツアーではそれなりにUOを折りましたが、それは「僕はこの歌からこれだけのパワーをもらっていますよ」という僕なりのメッセージであり、むやみやたらと叫んだりするよりは歌を聴く邪魔にもならないし、こちらのパッションを表現する有効な手段であると考えています。
しっとりと聴くべきバラードナンバー(例えば『深愛』とか『花束』)でUOを折る人がいれば、確かにそれはうざいですが、それはもはやマナーとか以前に感受性の問題なので、その観点で云々しても仕方のないことでしょう。
もちろん①と③はクリアしていても②に抵触をするケースもままあるので、特に極限状態になりやすいライブ会場では気を付けたいところです。
飛ぶにしても真っ直ぐ飛んで真っ直ぐ降りないと隣の人に迷惑をかけますから、気を付けなければなりません。
それには結構筋力が必要ですから、日頃から鍛えておくぐらいの心構えは持っているべきでしょう。
その場のノリだから、では許されないことも多々あるので、これは自戒を込めて気を付けたいいと思います。
えらそうにずらずら書き立てましたが、ライブはアーティストとそのパフォーマンスがあって初めて成り立つもの。
その2つが最大限尊重されなければなりません。
みんながそのことを深く胸に刻んでおれば、何も問題は起こらないはずなのです。
僕は面と向かってする議論は大好きなのですが、相手の顔が見えないし何よりレスポンスに時間のかかるWEB上の議論というのが大嫌いなので日記に書きますが、もしご意見がある方はご遠慮なくコメントをいただければと思います。
僕は以下の3点が守られているかぎりライブ会場では何をやっても差し支えないと考えています。
①アーティストが望まない行為ではないこと
②周囲の他の聴衆に迷惑をかけないこと
③アーティストのメッセージを受け取り、アーティストと心を1つにするためにする行為であること
この原則に依って立てば、無益な議論は発生し得ないと僕は思います。
例えば、オタ芸について言及すると必ず「何を持ってオタ芸とするのか」という本筋から逸れた原則論になってしまうのですが、③の点に注目すれば自ずと何をするべきではないかに気づくことができるはずです。
動きの大小とかそんなことはどうでもよくて、身体を動かしたり声を上げたりすることが手段ではなく目的となってしまっている時点で、舞台上のパフォーマンスはもはや二次的なものになってしまっているわけですから、アーティストと真正面から相対すべき聴衆としてのモラルに欠ける行為と言わざるを得ません。
従って、奈々さんの武道館でいわゆる「コール本」とでもいうべきものが配付されていましたが、作成し配付した方々の情熱には頭が下がる一方で、その趣旨には首を傾げざるを得ないのです。
野球やサッカーの応援じゃないんだから、かけ声を揃えることなんぞに腐心する前にまずちゃんと歌を聴こうよ、と思ってしまうのです。
聴衆の心ばかりが勝手に一つにまとまっても仕方ありません。
アーティストのパフォーマンスを心と身体に感じて、その反射としてシャウトしたり身体が動いたりするわけで、みんながみんな意図的に同じ反応をしようとすることには違和感を覚えます。
もちろん、いわゆる「お約束」を否定するつもりはありません。
奈々さんで言えば、いわばオフィシャルのお約束である「タオル曲」なんかはライブを盛り上げる上で必要不可欠なスパイスだと思いますし、今回のツアーで定着した『DISCOTHEQUE』での「ちゅるぱや」コールなんかは、あのとてもチャーミングな歌と奈々さんを核にツアー参加者が何の示し合わせもなく一つになった例であり、アーティストと聴衆の心が一つになった好例だと思います。
みのりんの『純白』での白いサイリウムも言わずもがな。
舞台上のパフォーマンスとは関係なく恣意的に行われる行為一切は、周りに迷惑をかけるとかそういう問題とは関係なく、聴衆としてのモラルに反すると思います。
着替え後のMCにおける「回ってー!」に対する異論は、僕にはその意味するところが理解できませんでした。
「ライブの流れを妨げる」というのであれば、そもそもライブにおいてわざわざ歌を中断して着替えること自体が流れを妨げる行為なわけで、着替えなどするな、ということになってしまいます。
そこをあえて着替えるということは、いろいろな衣装を見てもらいたいというアーティストの側からの意思表示なわけであり、それに対してレスポンスをするのはファンならばむしろ当然のことです。
特に奈々さんについて言えば、「回ってー!」に関連するやりとりを明らかに楽しんでおり、アーティストと聴衆が双方向のやりとりを交わす貴重なきっかけとなっているわけで、異論を差し挟む余地などないと思います。
ただし、そういうことを楽しめるアーティストばかりではないでしょうから、それが前記①に抵触するような場合には即刻止めるべきなのは言うまでもありません。
UOについての議論もよく分かりませんでした。
人が何本折ろうが、そんなのは自由だと思います。
もちろん使用済みのものを床に散らかしたまま帰るとか、その後の処理ができないというのは別の問題としてありますが、少なくともライブの最中の問題としては成立しないと思います。
確かに頻繁にUOを目の前で振られたら鬱陶しいと思う向きもあるかもしれませんが、自分はそれが不快だから止めろと言うのは、背が高い人に邪魔だから俺の前で飛んだり腕を振り上げたりするなと言うのと同じ暴論だと思います。
僕も奈々さんのツアーではそれなりにUOを折りましたが、それは「僕はこの歌からこれだけのパワーをもらっていますよ」という僕なりのメッセージであり、むやみやたらと叫んだりするよりは歌を聴く邪魔にもならないし、こちらのパッションを表現する有効な手段であると考えています。
しっとりと聴くべきバラードナンバー(例えば『深愛』とか『花束』)でUOを折る人がいれば、確かにそれはうざいですが、それはもはやマナーとか以前に感受性の問題なので、その観点で云々しても仕方のないことでしょう。
もちろん①と③はクリアしていても②に抵触をするケースもままあるので、特に極限状態になりやすいライブ会場では気を付けたいところです。
飛ぶにしても真っ直ぐ飛んで真っ直ぐ降りないと隣の人に迷惑をかけますから、気を付けなければなりません。
それには結構筋力が必要ですから、日頃から鍛えておくぐらいの心構えは持っているべきでしょう。
その場のノリだから、では許されないことも多々あるので、これは自戒を込めて気を付けたいいと思います。
えらそうにずらずら書き立てましたが、ライブはアーティストとそのパフォーマンスがあって初めて成り立つもの。
その2つが最大限尊重されなければなりません。
みんながそのことを深く胸に刻んでおれば、何も問題は起こらないはずなのです。
2008年の損失 ― 2009年02月03日 22時47分
ずっと眼をそらして続けてきたオリックス証券から送られてきた昨年の特定口座年間取引報告書を開けて見てみましたよ。
差損益額 -2,431,318
もうね、いっそのこと個人も有価証券取引における損失は損金として所得から差し引くようにするべきですよ。
そうすれば年度末にそれなりの所得税が返ってくるから、消費が上向くかもしれない。
給付金なんて得体の知れない金より、損したと思っていた金が戻ってくる方がお得感が強いので、消費を上向ける力は強いんではないでしょうか。
3年間損失が繰り越せるたって、3年で240万の利益なんてそうそうあげられませんよ。
麻生さんを初めとする政治家のみなさんはもうちょっと頭を使うべきですよ。
差損益額 -2,431,318
もうね、いっそのこと個人も有価証券取引における損失は損金として所得から差し引くようにするべきですよ。
そうすれば年度末にそれなりの所得税が返ってくるから、消費が上向くかもしれない。
給付金なんて得体の知れない金より、損したと思っていた金が戻ってくる方がお得感が強いので、消費を上向ける力は強いんではないでしょうか。
3年間損失が繰り越せるたって、3年で240万の利益なんてそうそうあげられませんよ。
麻生さんを初めとする政治家のみなさんはもうちょっと頭を使うべきですよ。
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