【平野綾】ミュージカル『嵐が丘』@赤坂ACTシアター2011年07月23日 14時14分

※以下は18年に及ぶ宝塚観劇歴によって培われた見識を元にした私見です

7/20のソワレを観ました。

結論から言うと、面白くなかった。
作り手も演じ手も、ミュージカルの語法を自分の物にしていないのに、オーソドックスなミュージカルをやろうとしているので、実にちぐはぐな印象を受けるのである。

理屈で芝居を語れる見識はないので、あくまで私見だが、ミュージカルというのは、まず登場人物がある感情(恋・憧れ・憎しみetc)を抱くきっかけとなる芝居のパートがあり、それを受けて思いの丈を朗々と歌い上げるというのがあるべき姿のものだと思う。
例えば、男がふとしたきっかけである女性と出会い(①)、何かの事件がきっかけで彼女に強く心惹かれ(②)、「僕は君に心奪われた~」的な歌が歌われる(③)、というように。
この作品は②の部分がない、あるいはあっても役者が下手くそでちっともそうしたきっかけに見えないために、いきなり朗々と歌い出される羽目になり、見ている方としては「は?」ってなものである。

この芝居は愛憎劇なわけだが、人物の感情が芝居によって伝わってこないので、炭酸の入っていないコーラを飲まされているようなものである。
とはいえ、全員が全員ダメなわけでもなく、ネリー役の杜けあきさんは言わずもがな、エドガー役の期待の若手ミュージカル俳優である山崎育三郎さんも完全にミュージカルの語法を飲み込んでいるので、この二人に関しては素晴らしかった。
ヒースクリフが去った後、諦めずにキャサリンに求婚するシーンはなかなか良かった。

イザベラ役の荘田由紀さんも、文学座の女優さんという割りには、というのは偏見かもしれないが、きちんとミュージカル向きの演技をしていた。

肝心の主役二人がダメなので、結局はどうしようもないのである。
これは芝居の造りそのものにも問題があると思う。
先に述べたように、感情の元になる芝居部分がそもそも作りつけられてないので、演技の上手い下手に関係なく(いや、下手なのだが)、演じようもなかったというところは多分にある。

キャサリンの天真爛漫さゆえに、ヒースクリフを想う気持ちとノーブルなエドガーに惹かれる気持ちが彼女の中で矛盾しないこと、あまりに一途な愛ゆえにヒースクリフにはそれが耐えられないこと、ヒースクリフを失ったキャサリンがエドガーのひたむきな愛を受け入れるまでの葛藤、キャサリンに裏切られたと思ったヒースクリフの憎悪、ヒースクリフが戻ってきてからの2つの愛に引き裂かれるキャサリンの苦悩・・・。
これらが何一つ伝わってこないのだから、そもそも自分は何を見ているのかすら分からなくなってくる。

この辺の舞台上での感情表現の豊かさは、宝塚は実に素晴らしいので、余計そう感じるのかもしれない。

歌に関してもそう。
河村隆一もあーやも全くミュージカルの歌唱になっていないので、違和感しか覚えない。
かつてそういう教育を受けたことがあるのか、荘田由紀さんの歌唱は実に見事で、はるかにあーやを凌駕していた。
声の押し出しが違うのである。
終演後のトークショーで、「全然違う歌い方にチャレンジしているんだけど、分かった?」という問いかけに客席の反応は薄かったのだが、ファンは正直だ。
確かに普段のライブとは違うが、声の出し方とか感情の込め方が変わっていないので、到底何か新しい物をつかんだようには聞こえない。
(自分の耳で聞いたわけではないから分からないが、この辺は東宝ミュージカルでみっちりミュージカルという物を仕込まれたはずの真綾とは大きく異なると思う)

そうそう、岩崎大さんにも触れておかないと。
言わずとしれた男優だけの劇団「スタジオライフ」の看板俳優で、一時スタジオライフの公演には通っていて、岩崎さんも大好きなので、彼も今回のお目当てだった。
しかしながら、歌が下手くそなのはご愛嬌として、演技もまた微妙だった。
いや、迫真の演技で、一番感情があらわになっていたとは思うが、いつも通りのど真ん中直球のストレートプレイなので、ミュージカルの中で見せられると違和感がすごいのである。

衣装がちゃちいのも興醒め。
舞踏会のドレスなど、カーテンかよ、と思ってしまう。
この辺を宝塚と比べても意味はないと思うが、2列目という良席だったので余計に眼に付いた。

あと気になったのが、あーやにオーラみたいな物を感じなかったこと。
優れた俳優さんは舞台上で何とも言えない「気」を発しているが、あーやには全くそれを感じなかった。
この点では杜さんと岩崎さんが二強だった気がする。

もう少しはマシかと思っていたが、ずいぶん高い買い物だったかな、と思わざるを得ない舞台だった。