SMについての一考察(あるいは「女王様」論)2009年02月01日 12時05分

今日の日記は長い上にいつも以上につまらないのでよっぽどお暇でない方以外はお帰りいただいた方がよろしいかと。

精神分析学の創始者であるフロイトは、後年の論文のいくつかでマゾヒズムについて論じています。
(ex.「マゾヒズムの経済論的問題」岩波書店刊フロイト全集第18巻所収)

当該論文において、フロイトはマゾヒズムを「性源的」「女性的」「道徳的」の三種類に分け、後年の思想の特徴である「エス」や「死の欲動」といった考え方を交えながら、その依って立つところを解き明かしていきます。

その理論をここでご紹介することは、果てしなく長くなるだけでなく、そもそも僕の能力では無理なので、こちらでは割愛しますが、後に若干フロイトの論考から拝借してくる部分もあろうかと思います。

さて、僕はSとMの関係をこのように考えるのです。
即ち、Sは「受け入れさせる人」、Mは「受け入れる人」。
もう少し分かりやすく、かつ逆説的な言い方をすれば、Sは「奉仕する人」、Mは「奉仕させる人」。

残念ながら僕にはそういう性癖が全くない(何故ないのかは最後にちょっと触れます)ので、SとMの関係性を極めて客観的に眺めることができるのですが、身も蓋もなくいえば「女王様ってのは大変だなあ」と思うわけです。
Mの人は基本的に何もせずにじっとしているだけですが、Sの人はあれやこれやとMの人にしてあげる。
殊にロープで縛り上げる際の手際などは、不器用で手元不如意な僕はただただ見とれるばかりです。

直接の行為はどのような形を取るにせよ、Sの人は自分の存在を受け入れさせるべく相当のエネルギーを使ってMの人に働きかけ、Mの人はがま口の蓋を開けてただそれを受け入れるだけなわけです。
一般的な捉え方とはおそらく異なるのだと思いますが、僕はSの人は面倒見が良くて優しく、Mの人は気ままでどちらかといえば冷淡である、というふうに感じています。
実際、僕が接したことのある女王様はみな頼りがいがある雰囲気で、優しい眼をしています。
見た目は確かに怖いですが、実際には温かそうな人ばかりです。

フロイトは前述論文の中で、死の欲動をリビード(一般的にはリビドーと称されていますが、ここでは岩波版全集の用語に従ってリビードと記述します)が無害化するためにその欲動を外界に向かわせたものがサディズムで、それが何らかの理由で内向きに働き、そこでリビードと共に拘束されたものがマゾヒズムであると(ものすごく簡略化すれば)述べています。
要は元々二つは同じものだと言っているわけですが、少なくとも人間観察的な見方をしているかぎりにおいては、どうもそのようには思えません。

少なくとも女王様に関するかぎり、実に建設的で、簡単に言えば「デキる」女性でなければ務まらないと思います。
僕はこの業界に聡いわけではないので正確なところは分かりませんが、僕の知るかぎり女王様が店を持つことはあってもMの人が店を持っているという話は聞いたことがありません。
女性が、殊に(あくまで法律上の)風俗店を経営するとなればかなりの行動力と才覚が必要なわけで、そういった仕事は確かに女王様にはうってつけ(おかしな言い方ですが)です。

実際、ビジネスマン的な視点から女王様を見ると、こういう女性と仕事をしたらかなり良い仕事ができるんじゃないかな、と思うことがままあります。

ここまできてふと、女王様というのはサディストの女性という意味ではなくて、「女王様」というまた別種の人格のあり方なのではないかと思うのです。
無論中には生粋のサディストである(つまり破壊欲動の申し子である)女王様もいらっしゃるでしょうが、基本的には(少なくとも精神分析的な意味での)サディズムと女王様という存在は切り離して考えることが必要だと思っています。

少し別の切り口から考えてみましょう。
フロイトは前掲論文において、男性に典型のマゾヒズムのあり方として、「女性的マゾヒズム」を挙げています。
これは、表層的には、縛られ、鞭打たれることを望む男性は即ち甘ったれた子供として扱われることを望んでいるのだという解釈です。
そうなると、じゃあそれに応えてお仕置きをしている女王様は「おかん」か、という話になるのですが、単純にそうではありません。
この場合当該男性は自らのリビード発達を性器期以前に退行させており、男性と女性が未分化である幼児期に至っています。
(なお、フロイトがここで「女性的」と呼んでいるのは、彼らが示す表象は幼児的であるのと同時に自らを女性に置き換えていることに所以しているのですが、ここではその詳細は割愛します)
この時期に特徴的に表れるのが、父に食われるという不安、父にぶたれたいという欲求、父に去勢されるのではないかという不安等々なわけですが、いずれにせよここで大きな役割を演じるのは「父」です。
つまるところ、M男に鞭を振るう女王様というのは、父と母両方の役割を演じていることになります。

両親の役割を演じている、というところに話が行き着くに至って、精神分析とはまた別の考え方が頭をよぎります。
エリック・バーンが提唱した「交流分析」という理論です。
理論の詳細はウィキに分かり易く解説されていますのでそちらをご参照いただきたいのですが、この考え方に沿えば、女王様はParentそのものであり、Mの人はChildそのものということになります。
つまり、SMのプレイというのはParentとChildが、お互いがお互いを無条件に是認する行為といえるのです。
交流分析の考え方における最も基本的なあるべき人間の状態が「I'm OK」であることを鑑みれば、この行為が確かに精神的快をもたらすことに大いに納得がいきます。

余談ですが、TV版エヴァの最後の二話はこの交流分析の考え方に類似しているという考え方があります。
これは、エヴァブームが最高潮だった放映終了直後の大学一年生のときに、当時受講していた心理学の講座の先生におそれおおくも「これ面白いです」とエヴァを紹介したところ大いに関心を持ってくださり、お忙しいのに全話見ていただいた上で、ラスト二話をこの交流分析的な見地から解説してくださったということがありました。
あまりにも子供で、怖いもの知らずだった頃の想い出です。

以上が僕のSMに対する基本的な捉え方ですが、最後に蛇足ながら僕がこうしたフェティシズムに与し得ない理由を述べてみたいと思います。
心理学的にあまりリアルに考えるとさすがに興醒めなので、ここは一つシンプルに。

それは、僕がオタクだからです。

SMに限らずある種のフェティシズムに身を置く人というのは、己のリビードを対象との関係性の中において燃焼させるわけですが、オタクというのはリビードを燃やすための燃料を自らに取り込むことによって、リビードを外に出すことなく己の中で燃焼させてしまう人種のことです。
その燃料は人それぞれですが、僕にとってはそれは歌であり、BLなわけです。
外に出すまでもなくリビードが萌えて、いやいや燃えてなくなってしまいますので、それが行為として表れることはないのです。

・・・ま、ネタニマジレスカコワルイという方向で<(_ _)>